確かにそこに在った、それを認識しようと手探りで表現し続けた作家、木下佳通代。その痕跡を目の当たりにした、そんな展示でした。
木下佳通代を知らなかったわたしは
そもそもこの展示のチラシを見たときから、胸の奥がぞわぞわしていました。
なんとかぎりぎりではありましたが、そのぞわそわを解決するべく展示を観に行くことができました。
暑い暑い日でした。
入り口を入ると、彼女の初期の具象画が迎えてくれました。夕方遅い時間に行ったため、デザイン系や画学生かなと思われる若い人が多く観覧していた印象です。
写真作品、映像作品の展示と続きます。
多くの資料が展示されていました。その資料そのものもデザインされた、美しい作品のようでした。
「存在」を認識するためにいろんな角度から、あえて近視眼的に見たり、俯瞰してみたり。出口の見えないものを掴みたいという彼女の意思を感じます。
そこに「在る」とはなにか、それを知るため、探求のために制作したような作品たちが並びます。片方がなくてもだめでお互いがあるから、それぞれが色として存在し、調和しているように見えた。わたしはこのオレンジと緑の隣り合わせた作品の感じが好きでした。
これ以上足しても引いても崩れてしまう、という絶妙なバランス感覚を訴えてくる作品。
これまで存在の認識のための作業を繰り返してきたが、ここからは彼女の中で確信のようなものにたどり着く出口が少し見えてきたか、と思わせる作品が並ぶ。ここからが本展の本丸とも言えるような気がしました。
1982-1994年、晩年までの油絵の世界。
この場所が玄関のようでいて、右の作品は表札のように見えました。
この作品と正対した瞬間、わたしの中のぞわぞわが、ふわりと腹の中に落ちたような感覚を覚えました。頭で考えることを越える、ただ感じる。それでいいんだ。
奥へ行くと前述のこの作品が冷ややかな熱量を持って存在していた。
そして次のセクション、最後の広いひろい展示スペースでは
水彩のようにさらさらと描かれた油絵の具が暑苦しさを帯びず、涼しげに並んでいました。
確信を掴みたい、掴めない、だからこそそこに執着してしまう。まるで取り憑かれてしまったかのように。真夏の暑さにも負けない、彼女の「信念という熱」は確かにそこにあった、その「存在」を感じる展示でした。
あつい夏の思い出、わたしはこれで充分です。
ありがとうございました。
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